BLOG「獨評立論」

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減速する中国の外交力と周辺地域動向(10)

(続き)

4.4.3. ベトナム侵攻と、文革派の残存という中国国内の路線闘争

  いまだ軍内部に残る文革派勢力の残存について。中国によるベトナム侵攻は、先に述べたように中ソ対立と華僑弾圧を背景とした政治の延長としての軍事行動であった。その象徴が、文革派勢力の残存という中国国内の路線闘争であろう。
  中国はこの中越戦争において、政治的アピールの達成はともかく、戦争という視点で見れば敗北を喫している。しかしこの戦いにおいては、敗北することもまた政治的目的の一だった可能性がある。権力奪取に向かっていた鄧小平ら脱文革派は、この戦争において徹底的敗北を喫する必要があった。
  自国の軍隊を敗北せしめる目的は、軍事路線において文革派が主軸に据えていた人民戦争論を否定することであった。そしてそれは、人民戦争論の否定を通じた毛沢東路線(=経済建設よりも階級闘争を優先する文革派の政治路線)の否定であり、華国鋒らの文革派からの奪権を狙うものであったと言える。

  ■中国人民解放軍における2つの軍事路線

  中国人民解放軍には軍事路線における2つの路線の対立があった。①機械化されたナチス・ドイツに対するソ連の勝利を参考として近代化を志向する機械化軍隊の路線〔99〕、②政治路線と解放戦争(国共内戦)の成功体験をダイレクトに適用した人民戦争の路線〔100〕、――の2つである。
  日中戦争~国共内戦期においては、共産軍は圧倒的に物量で劣ることから、ゲリラ戦に主体を置いた後者を採用している。毛沢東は1938年に発表した『持久戦論』の中で、物資の貧しさ・乏しさを理由とする敗北の可能性に言及するものを「唯武器論」だと批判〔101〕。1938年には『抗日遊撃戦争の戦略問題』(いわゆる『遊撃戦論』)を著し、人民戦争理論を確立した。さらに国共内戦中の1947年には、陝西省で開催された中共中央拡大会議「十二月会議」で、「十大軍事原則」を提唱している。共産勢力はこの中で、軍事理念を「分散し孤立した敵への攻撃を優先」「大きい都市より小さい都市を優先して攻略」などの具体的なゲリラ戦の原則へと発展させ、先の華僑工作の項目に述べたような政治的適用をも通じ国共内戦に勝利した。
  しかし中国建国以降、軍事のプロフェッショナルである解放軍の長老の中では近代化も叫ばれるようになった。人民戦争論はあくまで中国の主権を争う中で形成された内陸での軍の展開における理論であるため、中国大陸に主権を確立して以降は軍の目的が「共産党の存亡をかけた中国国内での戦闘における優位性確保」から「中国という国家の枠組みの防衛」に状況が変わったためであろう。国境での防衛に軍事理論がシフトするのは当然であり、実際に建国後に発生した国境での戦闘では、毛沢東ですら人民戦争とは異なる対応を採った。例えば朝鮮戦争においては、毛沢東も遊撃戦ではなく、米軍の仁川上陸と東北侵攻を予想しそれに先んじる形で鴨緑江を越えた。この朝鮮半島への介入は、敵を中国の奥地に誘い込んで殲滅する人民戦争とは根本的に軍の展開方法が異なる。遊撃戦を中心とする人民戦争論を適用した場合、装備の質で勝る米軍に対し中国側より攻撃を仕掛けるというのはまず考えられない。建国直後の朝鮮戦争では、参戦に反対したのは殆どが軍関係者であった(後述する人民戦争理論の旗振り役・林彪ですら参戦に反対している〔102〕)。また当時は「抗日戦争」から数年であり、理論家や技術者たちを中心に、毛沢東が言うところの「米国への過大な幻想」〔103〕も大きかった。
  この朝鮮戦争で総司令を務めた彭徳懐は、1956年9月の第8回党大会で、中央軍事委員会を代表して軍事活動報告を行った。彼が朝鮮戦争で中国軍の近代化の必要性を痛感していたであろうことは想像に難くない。同会議で彭は、ソ連をモデルにした人民解放軍の精鋭化および近代化と国境付近で敵を撃滅する構想を唱えた。その内容は、「帝国主義が中国に対し侵略戦争を発動した場合、中国は必ず反撃し、予め設定した防御地域で敵の進攻を阻止」することであった〔104〕。つまり敵を誘い込むことはせず陣地防御によって敵を阻止するというものである。加えて当時は、台湾の蒋介石を中心とする国民党が「大陸反攻」により福建沿岸部に上陸した際に、「敵を上陸させて殲滅する」か「敵の上陸を海岸線で防ぐ」べきか、1950年代から中国の軍事指導者たちの間で度々議論されていた。

  遊撃戦に頼った人民戦争のイメージ図
  ▲遊撃戦に頼った人民戦争のイメージ図(クリックで拡大)

  陣地防御に頼った国境極地戦争のイメージ図
  ▲陣地防御に頼った国境極地戦争のイメージ図(クリックで拡大)

  ■文革前夜にみる路線対立:彭と羅の近代化路線

  遊撃戦に頼った人民戦争と陣地防御に頼った国境極地戦争――この2つの路線は常に対立を繰り返し、それは文革期の前夜、対ソ批判の文脈で激烈に出現した。
  その前触れこそ、上記の国防部長の彭徳懐の事例であった。彭は文革前の大躍進政策時に、毛沢東への政策批判を行い、ソ連への内通を疑われ国防部長を解任され失脚したという事実もある。彭の唱えた軍事戦略の構想も、旧来の毛沢東の持久戦論および遊撃戦論とは異なるものであった。
  彭は「積極的防御」の在り方を提起している。ここで出てくる「積極的防御」は、この後の中越戦争前後でも軍事理論対立においても出現するキーワードである。これは人民戦争論をベースに「敵を上陸させて殲滅する」という毛沢東の「積極的防御」の概念に新しい意味を付与した戦略方針であり、戦争勃発の制止と延期、戦争勃発後3~6カ月かけて即決戦から持久戦に持ち込み、徐々にイニシアチブを奪うための能力などが重視されている〔105〕。一方従来の毛沢東の「積極的防御」とは、戦略的防御(戦略的退却+戦略的反攻)と戦略的進攻からなる戦略であった。毛が提唱し固定化した「遊撃戦争」は正規戦争とは異なり、自己の保存と相手の消耗を狙い内陸深く誘致導入させた後、正規軍による「運動戦」へと発展させるものであった〔106〕。1958年5月から7月にかけて開催された第4回党中央軍事委員会拡大会議では、彭の「ブルジョア軍事路線」やソ連追随の「教条主義」批判がなされた〔107〕
  そしてその後も、文革の旗振り役ともなる実力者・林彪と、やはり軍の実力者である羅瑞卿が意見を対立させていく。羅瑞卿は中国建国に当たり貢献の大きい人物として1955年には十大大将に任ぜられており、毛沢東の腹心であった。林彪もまた、中国建国に当たり貢献の大きい人物として同年に十大元帥の一人となり、中国軍における序列は朱徳、彭徳懐に次ぐ第3位であったが、十大元帥の中で最年少でありカリスマ性にも欠けていた。また他の十大元帥はそれぞれ党との人脈を有していたのに比べ(四川省出身の元帥・劉伯承は、同郷の鄧小平と「劉鄧不可分」「劉鄧大軍」と呼ばれる人脈を有していた〔108〕。鄧が四川の諺を引き合いに述べた「白猫黒猫論」も、最初に提唱したのは劉伯承である。また同じく元帥の陳毅は、劉少奇との人脈を有していた〔109〕)、林彪には中国共産党中央に通じる人脈が少なかった。
  林彪は毛沢東への接近を図り、中ソ対立の表面化の中で毛沢東思想の絶対化を進める。一方の羅瑞卿は、毛沢東思想を振りかざす林彪に権力欲をかぎ取り、あくまでマルクス・レーニン主義の基本路線に忠実であった。また林彪と羅瑞卿は軍事路線の問題で、先に述べた路線の対立をそのまま有していた。社会主義国家の軍隊として近代化を推し進めたい羅瑞卿と、毛沢東思想を優先した人民戦争論の維持に努める林彪の対立は決定的だった。

  ■軍事路線の対立の象徴:羅瑞卿論文と林彪論文

  中国人民解放軍に影を落とす軍事路線の対立について、参考になるのは羅・林の両者が書いた論文であろう。
  羅瑞卿は1965年5月10日の『紅旗』第5号に論文「ドイツファシストに対する勝利を記念しアメリカ帝国主義と最後までたたかいぬこう」を寄稿〔99〕。この論文は、スターリンをはじめとするソ連がナチス・ドイツへの「反ファシスト祖国防衛戦争」において、勝利をおさめたことを記念したものである。この中では、「武器は戦争における重要な要困ではあるが、決定的な要因ではない」と「唯武器論」を批判しつつも、「反ファシスト戦争の歴史的経験が教えているように、積極的防御という戦略方針は帝国主義の侵略戦争に反対する社会主義国の唯一の正しい方針である」としている。繰り返すが、毛沢東の人民戦争理論における「遊撃戦争」は正規戦争とは異なり、自己の保存と相手の消耗を狙い内陸深く誘致導入させた後、正規軍による「運動戦」へと発展させるものであった。つまり毛沢東の言う「積極的防御」とは戦略的防御(戦略的退却+戦略的反攻)と戦略的進攻からなる戦略であった〔110〕。しかし羅の「積極的防御」とは、彭徳懐に連なる、陣地防御で敵を国境付近に留め叩くというものであった。羅論文では致命的なことに、中ソ論争を背景にフルシチョフへの批判を行いつつも「もっとも広範な統一戦線を結成して、もっとも主要な敵に反対しなければならない」「反ファシスト戦争の輝かしい勝利をかちとった偉大なソ連人民、偉大なソ連軍隊にたいして、崇高な敬意をいだき、かぎりないあふれるような信頼を寄せている」としている〔99〕。ここに林彪は「ソ連と統一戦線を結んで “最も主要な敵”アメリカと戦う」という姿勢を嗅ぎ取った〔111〕
  林彪は、羅論文直後の1965年9月に「人民戦争の勝利万歳」という論文を執筆〔100〕。「中国人民の抗日戦争勝利二十周年」を記念し「偉大な抗日戦争が勝利してから、もうまる二十年になる」という書き出しで始まるこの論文は、「中国人民は中国共産党と毛澤東同志の指導のもとに、長期にわたって勇敢に奮闘し、ついに、中国をほろぼしアジアを併どんしようとした日本帝国主義をうちやぶり、抗日戦争の最後の勝利をかちとった」と論じている。その内容は徹頭徹尾、毛沢東への賛美と毛の軍事戦略の正統性を補強するものであった。「以下に兵器が近代化しようと最後には、勝敗は地上部隊の連続的な戦闘、戦場での白兵戦、人間の自覚、勇敢さ、犠牲的精神が決定する」と断じ、軍の近代化よりも政治思想の優位性を語っている。そして具体的な戦闘行動における軸は遊撃戦であるとして、「殲滅戦は我々の作戦の基本である。敵を深く誘い込んでこそ、人民は様々な行動で作戦に参加できる。敵を引き込んでこそ、敵を有頂天にさせ、両足を泥沼に沈めることができる」としている〔100〕。

  ■文革前夜に優位を決定した人民戦争論

  最終的には、権力闘争の中で人民戦争路線を掲げるグループの優位が決定し、遊撃戦・運動戦を主体とする毛沢東軍事路線へ転換。人民解放軍は文革直前の1965年5月、思想面での徹底を図るため階級制度の廃止まで実施される。人民解放軍は毛沢東に「我々はこれまでも解放軍を頼っていたが、これからも頼らねばならない」〔112〕と言わしめるほど、毛の政治路線を支える力となる。文革の発動後、羅瑞卿は自殺未遂を起こす。自殺が「抵抗」の証とみなされる中国において、羅の「反革命性」は決定的となり、文革期は足の不自由な状態で糾弾大会に引きずり出されることとなる。また軍長老らも、相次いで失脚していく。
  階級制度が廃止された翌月の1965年6月、毛沢東は杭州会議において、「やはり誘敵深入(我が方へ深く敵を誘致導入)こそが良いのだ」、「敵を国門(国境)の外に防ぐ方法は、私は従来良い方法だとは思わなかった」と指摘し、以後「誘敵深入」は「積極防御」と並称され、「積極防御、誘敵深入」戦略方針と呼ばれることになった〔113〕
  これは西側の先進諸国から見れば奇妙な動向であった。日本外務省が発行した『わが外交の近況(第10号) 昭和41年8月』は、「一九六五年五月一四日には中共の二回目の核爆発実験が行なわれ、中共の核開発が順調に進んでいることを示した。反面同月、羅瑞卿総参謀長は、「積極的防衛」を強調したが、つづいて中共政府は『軍のプロレタリア化と戦闘化』が必要であるとして、六月一日より、人民解放軍の階級制度を廃止した」と記述〔114〕。核兵器開発という近代化の一方で前代未聞の階級廃止を行った中国軍に対し、どう分析するべきかという戸惑いを伺い知ることが可能である。
  実際のところ、国防戦略を毛沢東はどう考えていたのか。毛が遊撃戦を軸とする人民戦争論を主体に中国の安全保障を考えていたのは間違いない。それは1964年から開始された「国防三線建設」に表れている。同年に毛沢東により発令された「国防三線建設」の決定号令は、核戦争を前提とした第三次世界大戦に備え、満蒙・新疆・沿岸部を戦争最前線の「第一線」、西南地区のタイ・ラオス・ベトナム・ミャンマー国境地域を「第三線」と規定し、同地域の後方支援根拠地としての整備を提起したものだった。その契機は同年のベトナムにおけるトンキン湾事件の発生であり、中ソ論争、台湾海峡危機、中印国境紛争の直後の同時期、米軍の北爆拡大に対する国防対策の再検討は不可欠だった。毛沢東は鉄道建設による内陸のネットワーク構築を重要視し、「成昆(成都・昆明間)、湘黔(四川・貴州間)、滇黔(雲南・貴州間)、これら3本の鉄道建設を急ぐべきである。レールが足りないならば、他の路線から外したらよい」とまで発言〔115〕。この危機感は同年に戦略的鉄道建設への投資を42億元増やした決定にも表れており、1969年にソ連と衝突した珍宝島事件の直後には、再度鉄道建設の加速を命じている〔116〕。いずれにせよ、この三線建設を経て中国内陸に鉄道網が構築。現在も拡大を続けており、内陸との連携強化も図られている。また内陸部には独立遊撃隊であるかのような、人民公社を主体とした工場ネットワークが「大分散・小集中」の原則により完成。中国西南部の山岳地帯は対ソ・対米核戦争におけるゲリラ根拠地として整備が図られ、文革で地方に再教育の名目で送られた知識人(下放青年)や、武装闘争による混乱の行きすぎを防ぐために都市部から追放された紅衛兵らが、その建設任務に配置された。
  なおソ連との国境地域では、交通網整備など軍の展開に必要不可欠なインフラ整備には消極的な面が見られる。これは改革開放政策の本格化まで、台湾有事を想定し沿岸部を結ぶ鉄道を一切敷設しなかった福建省と同様である〔116〕。ここにあるのは先に述べたように、国境への先んじた展開ではなく、内陸へ誘い込んで遊撃戦を行うという軍事理論に基づいたものである。
  しかし一方で、毛沢東は主敵のソビエトを睨んだソ満国境紛争について「われわれがやっているのは局地的な国境戦争だ。拡大してはならない。砲弾は川沿いに撃ち、断じて縦に深く打ってはならない」とも強調しているのである〔116〕。つまり政治的な路線では人民戦争論を堅持しつつ、朝鮮戦争以降の国境紛争で明らかになっているように、実際の戦争では少なくとも国境防衛としての限定的な局地紛争に絞っていた側面も見られるのである。これは明らかに近代化したソ連軍事力への警戒感であり、国家経済を担える先進的な工業地域として当時は唯一といっていい。旧満州国に相当する東北地域への重視であろう。

  ■文革後も続く軍事路線の対立と鄧小平

  以上のような建国後の軍事理論の迷走を見るに冒頭の2つの軍事理論の対立は、中国軍の純粋な理論闘争というよりも、国際情勢におけるイデオロギー対立と、中国国内のイデオロギー対立ひいては権力闘争という状況を反映したものだったともいえる。
  この対立は文革の終息後も継続する。中ソ対立が続く中越戦争当時にも「対ソ戦争への体制整備」という文脈ではあるものの、毛沢東の後継指名をよりどころに権力維持を図る華国鋒グループ(文革派)と脱文革による近代化を志向する鄧小平グループ(脱文革派)の間で出現し、それは軍の近代化を実施するか否かという形で議論になった。前者は軍事経験の不足もあり、軍事路線は毛沢東路線の継続以外にありえず、それは人民戦争論そのものであった。後者は鄧小平はじめ葉剣英など建国期に軍事経験を有する長老たちでもあり(殆どが文革で失脚を経験)、近代化による機械化軍隊を志向していた。この路線対立において、中越戦争がその対立の中で一つのキーポイントになったであろうことは想像に難くない。鄧小平は、文革で台頭してきた人民戦争路線に偏重する軍人たちを中越戦争に送り、徹底的に敗北せしめる必要があった。
  日本では「前近代的な人民戦争路線でベトナムに敗北したことを教訓に、近代的な機械化戦争への脱皮の必要性が認識された」という理解が多いが、因果関係は逆の節がある。「近代的な機械化戦争への脱皮の必要性が認識せしめるべく、前近代的な人民戦争路線でベトナムに敗北させる必要があった」と捉えるべきであろう。鄧小平の「教訓してやる」という言葉のリアリズムがここにある。この言葉は、ベトナムに対するものだけではなく、文革期に台頭してきた中国国内の軍事経験の未熟な人間たちへの言葉でもあったと捉えるべきではないだろうか。鄧小平は先述の通り劉伯承とタッグを組み、革命の元勲として豊富な軍事経験を有する革命の元勲であったのだ。
  加えて、これも先に述べたとおり、鄧小平は毛沢東に「鄧小平は劉少奇とは異なる。モスクワへ行った際に修正主義集団に屈伏しなかった」〔117〕と言わしめるほど、対ソ外交では妥協を許さなかった。人民戦争を政治的に応用した華僑工作については先に述べたが、同様の人民戦争論――この場合は統一戦線論という方が適切であるが――を対ソ戦略に応用した毛沢東晩年の外交理論に「三つの世界論」がある。この思想は、今後の北朝鮮関連での中国を交えた情勢を捉えるうえで非常に参考になるものであるため後述するが、このなかで示された「反ソ国際統一戦線」の形成に関する理論を公的な国際舞台――国連総会――の場で1974年に演説したのは、文革の権力闘争の中で失脚から復活したばかりの鄧小平その人であった〔118〕。その彼が、対ソ接近を図るベトナムおよびラオスを叩くことは、華国鋒以上に毛沢東思想(毛沢東路線ではない)の正当なる継承の意味を党内で示すことでもあった。
  詳細は後述するが、鄧小平は毛沢東思想に立脚することで毛沢東路線を否定し、近代化路線につなげることを成功させた。しかしそのためには、中越戦争は避けては通れない道であった。そしてそれに対し、文化大革命の時期に台頭して毛沢東からの後継指名をよりどころに権力を維持する華国鋒に、反対する選択肢は存在しなかった。
  結果として中越戦争は、中国側には政治的目的を達成させる一方で、戦術的には惨たらしいまでの敗北に終わった。数年前までアメリカ軍相手に戦い抜きベトナム統一を成し遂げ高い練度を維持し、ソ連からの全面的な支援を受けたベトナム軍は、まさに「国境防衛」という近代戦争の原則に則った退却を行った。中国軍はベトナム北部国境地帯の占領には成功したものの、イデオロギー偏重で階級制度を否定し指揮系統が混乱するなか、中ソ論争前後のまま近代化が凍結した戦力で朝鮮戦争なみの人海戦術を敢行し、部隊の自殺的突撃を生んだ。結果として、人民解放軍幹部らは軍近代化の必要性を痛感。鄧小平路線を全面的に支持する。
  ベトナム介入は、鄧小平の国内奪権闘争の一環としての外部介入であった。この敗北こそが軍内の支持者の獲得を加速させ、鄧小平が軍権を完全掌握する追い風となった。そして「銃口から権力が生まれる」とされる中国で、その軍事力を背景に中国の最高権力者としての地位を確立。鄧小平は1981年に党中央軍事委員会主席に就任し、1987年に党中央委員を退きながらも1989年までこの地位を保持し続ける。天安門事件当時に趙紫陽は、「我々は鄧小平の操舵を必要としている」と述べている〔119〕。皮肉にもこの物言いは、文革中に毛沢東について歌曲にもなった「大海航行靠舵手」(大海を行くには舵手に頼る)と同様の表現であった。

  ■中越戦争前後の軍内の理論闘争と結末

  では、実際に中越戦争前後の軍内における理論闘争はどのように推移したのであろうか。当時の中国共産党中央軍事委員会(党中央軍事委)の委員だった粟裕は1979年、「現代条件下の人民戦争」につい研究を進め、対ソ戦での「誘敵深入」の絶対化を否定している〔120〕。粟裕は毛沢東と同じ湖南省の出身であり、山岳民族であるトン族出身の将軍である。遊撃戦争の理論家として名を馳せ、第一次国共内戦においては、ソビエト・コミンテルン指導下の党中央上級組織との連絡が失われた情況下でも、独立して遊撃戦を展開〔121〕。また1948年の豫東戦役では、ただちに作戦変更を命じ党中央から「情況緊急時,獨立處置,不要請示」(緊急状況のため、独立した処理を認む。指示待ち不要)〔122〕との電報を受け取り戦闘を展開している。山岳民族の出自ゆえかは解らないが、状況に応じた遊撃戦の名手であった。
  粟裕は新理論で、「予め設定した防御地域で敵の進攻を阻止」するという、1950年代の彭徳懐の軍事理論に近寄った結論を導き出している。しかし一方で、「防御」という単語ではなく「運動戦」という表現を使っていることから、そこに毛沢東路線への配慮と、人民戦争理論の支持勢力の存在をうかがい知ることはできよう。また敵を国土の一定区域に引き入れて戦うという点では人民戦争思想を基本的に堅持しているという指摘もある〔123〕。なお1980年10月15日、全軍高級幹部戦略問題研究会議(通称「801会議」)で鄧小平は「積極防御の四文字に賛成」と発言し、毛沢東の編み出した「積極防御」を継承する姿勢を取りつつ、「誘敵深入」に全く触れていない〔120〕。つまり鄧小平は、「誘敵深入」については否定的であったと言える。粟裕は軍近代化に向けて、鄧小平らが間違いなく克服すべき人間であった。
  ここでこの時期の軍事指導者の移り変わりを確認する。中越戦争は1979年であり、当時は中国共産党の第11回党大会後、第11期中央委員会の指導体制(1977年から1982年)であった。この最中の1978年12月に行われた中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)は、文化大革命の総括と改革開放路線への転換を行うとともに、華国鋒から鄧小平への権力移行を確定した大会であった。この前後の指導部を見てみると、中共中央軍委と構成員を同じくする中華人民共和国中央軍事委員会(国家中央軍委)の主席は、第11回党大会で華国鋒がその座についていたものの、1981年6月に第11期6中全会で鄧小平に移譲。副主席は鄧小平を除けば、葉剣英、劉伯承、徐向前、聶栄臻であった。また常務委員会委員は、李先念、粟裕、羅瑞卿(文革後に復権)、汪東興、陳錫聯、韋国清、蘇振華、張廷発であった。しかし1978年に王震が、1979年に耿飈が、1981年には楊尚昆が加わっている。楊尚昆は後の1989年6月、天安門事件で戒厳令を敷き機械化された部隊を投入する。中越戦争後の第12回党大会では、軍事委の主席は鄧小平が続投。常務副主席に楊尚昆、副主席に葉剣英、徐向前、聶栄臻。委員がその人数を減らし、張愛萍、余秋里、楊得志、洪学智の4人となっている〔124〕
  この移り変わりの中、先述の粟裕は脱落している。そして新たに楊得志が加わっている。彼こそは、雲南省・昆明の昆明軍区で中越戦争の指揮を執り、さらに中越戦争の報復となる1984年の両山戦役で、近代化による砲撃戦と陣地占拠を軸に勝利を収めることになる人物である。
  中越戦争は明らかに中国国内の軍事理論の対立と権力闘争を巡るファクターとして作用した。ベトナム介入は、鄧小平の国内奪権闘争の一環としての外部介入であった。この敗北こそが軍の近代化ひいては鄧小平支持者の獲得を加速させ、鄧が軍権を完全掌握する追い風となったと言えよう。軍は中越戦争の実戦により近代化の必要性を痛感したのであるが、これは皮肉にも、総司令官として朝鮮戦争を経験した彭徳懐が近代化を唱えた一方で、朝鮮戦争を欠席した林彪が人民戦争への傾斜を強めたことと酷似している。中国人のいう「文革(というイデオロギー闘争」が無ければ、中国はもう少し早く先進国の仲間入りをしていた」という意見は、軍備増強においても明らかである。

  ■軍権の掌握という問題:現在の習近平政権

  現在の中国に目を転じると、習近平は現在すでに形式上は軍のトップであるものの、いまだ彼に従わない勢力が多いことでも知られている。習の妻・‎彭麗媛は、全国的に有名な国民的美人歌手であると同時に軍人でもある(軍における最終階級は少将で、天安門事件時にも慰問のため戒厳兵士らの前で歌を謡っている)。軍内外に多くのファンを獲得し、兵卒レベルでは習近平の重要な基盤とも言われる。しかし中国の政治において、それだけでは軍権の掌握など望むべくもない。
  2014年6月30日には腐敗撲滅キャンペーンの一環として、胡錦濤時代の中国軍の実力者である前中央軍事委副主席の徐才厚について、党籍剥奪処分が断行された〔126〕。しかし徐と良好な関係にあった軍の幹部はまだ多数いるはずである。また前任の胡錦濤もまた、鄧小平~江沢民の「機械化軍隊」からの転換を図る「情報化軍隊」という軍事路線を掲げ〔127〕、軍の掌握を図っている。習にとっても新たな軍事理論の打ち立ては重要項目であるはずだ。その場合、対外的な行動を通じて軍内部に刺激を与える可能性は決して低いものではない。
  繰り返すが、中越戦争は中国国内の路線闘争の表面化という側面があったと言える。中国で党における奪権闘争が本格化するとき、軍権の掌握に向け対外的な強硬路線に出てくる可能性は非常に大きいことをここに述べておく。

(続く)




※99 紀念戰勝德國法西斯把反對美帝國主義的鬥爭進行到底
  (1965年5月10日『紅旗』第5号)
※100 人民戰爭勝利萬歲 紀念中國人民抗日戰爭勝利20周年
  (1965年9月3日『解放軍報』)
※101 『遊撃戦論』
  (毛沢東,中央公論新社,2001年)
※102 『悪の三国志―スターリン・毛沢東・金日成』
  (茅沢勤,講談社プラスアルファ新書,2004年)
※103 中国の朝鮮参戦と“唯武器論”――参戦をめぐる政治的葛藤に関する一考察
  (平松茂雄,アジア研究,アジア政経学会,1977年10月)
※104 『Peng Te-huai: The Man and the Image』
  (Jürgen Domes,Stanford University Press,1985年)
※105 『中国軍事用語事典』
  (茅原郁生編,蒼蒼社,2006年)
※106 運動戦、遊撃戦、陣地戦
  (『毛沢東選集第三巻』,北京外文出版社,1968年)
※107 1962年の彭徳懐への外国内通批判に関して
  (杉田徹,『社会システム研究』,立命館大学社会システム研究所,2012年9月)
※108 劉伯承與鄧小平——戰場上的最佳拍檔
   (2006年7月21日『中國共産黨新聞』)
※109 『毛沢東秘録』 第三章 人民戦争の勝利万歳
  (産経新聞「毛沢東秘録」取材班,産経新聞)
※110 「積極防御」の誕生と権威化,毛沢東主導による積極防御戦略の確立
  (中国積極防御軍事戦略の変遷,『防衛研究所紀要 第13巻第3号』,2011年3月)
※111 『毛沢東秘録』 第三章 人民戦争の勝利万歳
  (産経新聞「毛沢東秘録」取材班,産経新聞)
※112 『毛沢東秘録』 第三章 人民戦争の勝利万歳
  (産経新聞「毛沢東秘録」取材班,産経新聞)
※113 毛沢東の原点回帰,毛沢東主導による積極防御戦略の確立
  (中国積極防御軍事戦略の変遷,『防衛研究所紀要 第13巻第3号』,2011年3月)
※114 共産圏の動向,一 世界の動きとわが国
  (わが外交の近況 第10号,昭和41年8月,外務省)
※115 国防戦略のコスト,大いなる損失
  (矢吹晋『文化大革命』,講談社現代新書,1989年)
※116  満洲はパヤオなり――地域交通政策から見る北東アジアと東南アジア――
  (南文明,『曠々満洲』第四号「旅する満洲」,2014年,満洲研究会)
※117 鄧小平の復活前後,周恩来の役割と鄧小平の復活前後
  (矢吹晋『文化大革命』,講談社現代新書,1989年)
※118 鄧小平出席聯合國特別會議的台前幕後
  (吳光祥,遼寧黨史研究室,史海迴眸,中國共産黨新聞)
※119 戈爾巴喬夫談趙紫陽
  (2005年4月1日『博訊新聞網』)
※120 国境付近での進攻阻止の公式化,積極防御戦略の変容
  (中国積極防御軍事戦略の変遷,『防衛研究所紀要 第13巻第3号』,2011年3月)
※121 浙南游擊
  (2007年8月16『中国共産黨新聞網』)
※122 粟裕在東南野戰軍組成以後 深切緬懷粟裕同志
  (張震,回憶懷念,粟裕紀念舘,領袖人物紀念舘,中国共産黨新聞)
※123 『現代中国の軍事指導者』
  (平松茂雄,勁草書房,2002年12月)
※124 『中華人民共和國軍事史要』
  (軍事科學院軍事歷史研究所,軍事科學出版社,2005年1月)
※125 徐才厚失脚と背後の暗闘,中国新聞趣聞~チャイナ・ゴシップス
  (2014年7月9日『日経ビジネスオンライン』)
※126 胡錦濤の軍事戦略と情報化
  (阿部純一,政策提言研究「中国軍事戦略の趨勢と海軍」,日本貿易振興機構,2011年)












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  1. 2015/02/13(金) 21:45:24|
  2. シリーズ記事「減速する中国の外交力と周辺地域動向」(未完)
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BLOG「獨評立論」

BLOG「獨評立論」です。ブログ名は「獨り評し論を立てる」の意。筆不精ですが、主にアジアを中心にニュースや体験などから「獨評立論」を行います。

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一人の日本人です。一切の企業、団体、宗教等とは無関係です。/ngóa sī Ji̍p-pún-lâng kì-chiá./yat boon yan/JAPANESE

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